■TOKYOアイヌ(ドキュメンタリー映画)

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■TOKYOアイヌ(ドキュメンタリー映画)

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[日時]2016年(平成28年)

12月10日(土)午後 7時

12月11日(日)午前10時

12月11日(日)午後 2時

(上映時間114分)

[場所]和泉市立人権文化センター4階視聴覚教室

[定員]各回20人

[費用]無料

[申込]事前申込不要

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[会場]ゆう・ゆうプラザ(和泉市立人権文化センター)

〒594-0023大阪府和泉市伯太町6-1-20

→JR阪和線「信太山(しのだやま)」駅から200M

→無料駐車場有

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→詳細は特定非営利活動法人ダッシュまでお問い合わせください。

[URL]http://dash-npo.org

http://dash-npo.blogspot.jp/

[電 話]0725-46-3809

[メール]antispamxinfo@dash-npo.org

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インフォ@ダッシュ・ハイフン・エヌ・ピー・オー・ドット・オー・アール・ジー

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◆ドキュメンタリー映画「TOKYOアイヌ」

 

監督・撮影・編集:森谷博

2010年度 カラー 16:9 114分

 

「TOKYOアイヌ」映像製作委員会

 

http://www.2kamuymintara.com/film/

 

https://twitter.com/tokyoainu

 

http://www.facebook.com/TokyoAinu

 

 

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生活の海、首都圏。

 

ここに暮らす五千人とも一万人ともいわれるアイヌ民族。

 

どこにいようと自らの民族を生きることは、日本人を含め、あらゆる民族に共通の課題としてある。

 

だが、日本の近代化はアイヌがアイヌとして生きることを許してこなかった。

 

その苦難の道を選びとった首都圏アイヌの声がいま初めて発せられる。

 

2008年6月、国会はアイヌ民族を日本の先住民族と認定した。

 

だが、その意味を受け止める人々はまだ少ない。

 

この映画は首都圏アイヌの声を通して、その事実のふくらみを、この時代を生きる隣人どうしが、真正面から受け止め会うために、世に送り出された。

 

 

 

 

 

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◇フチのひと言で、この映画は始まった

 

「アイヌの映画を作って! 私たちの声を残してほしい!」

 

首都圏に暮らす五千人とも一万人ともいわれるアイヌたち。その一人のアイヌのフチ(おばあさんの尊称)の一言が、すべての始まりでした。

 

1872年、現在の東京都港区芝に「北海道土人教育所」ができ、38名のアイヌが強制的に連れてこられました。それから130年あまり。経済的な事情、また差別といったさまざまな理由から、多くのアイヌの人々が北海道から首都圏に移り住みました。

新たな困難の中でアイヌであることに背を向け懸命に生きてきた人々の中から、1970年代に「ウタリ(仲間)よ、手をつなごう」という新聞投書をきっかけに、首都圏アイヌの活動母体「東京ウタリ会」が誕生します。

 

活動は80年代の揺籃期を経て、90年代にはアイヌ料理店「レラ・チセ」ができるなど躍動期に入ります。21世紀に入り、アイヌの若者で結成されたアーティスト・グループ「アイヌ・レブルズ」など、次世代のアイヌも活躍を始めました。(注:「レラ・チセ」は2009年11月に閉店となりました。)

 

北海道の山野を駆け巡り自然との深い共感をはぐくんだ長老たちの記憶を今にとどめ、21世紀を生きるアイヌの身体と声を映像に残したい、現在を生きるアイヌの心に向き合い、未来へのアイヌの想いを紡いでほしい・・・。

 

フチの言葉を受け、映像製作委員会が活動を開始する中で、この映画を撮るにふさわしい監督との出会いがあり、映画は2007年春から撮影を開始。

 

千葉県君津市で「カムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)」と名づけたアイヌ文化の伝承施設を独力で造っている浦川治造さんの撮影からスタートし、当初は映画の仮題を「アイヌの治造」としました。

 

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◇映画のめざすもの

 

撮影を進める中、映像製作委員会内でも、ウコチャランケ(互いにとことん話し合うというアイヌ語)が何度も行われました。その結果、首都圏アイヌコミュニティー全体に取材対象を広げることになり、映画の題名も「TOKYOアイヌ」と決定しました。

 

この映画は、首都圏に暮らすアイヌの方々のインタビューを軸に、その合間合間にアイヌとしての活動、あるいはひとりの個人としての日常の営みをはさみ、今を生きる「TOKYO アイヌ」という民族コミュニティーの等身大の姿を追っています。

 

首都圏のアイヌの活動の歴史を踏まえ、現在の一人一人の想いがどのような歴史を背景にしているのか、また既に亡くなった人々の想いを、どのように今を生きるアイヌが引き継いでいるのかも描かれています。

 

首都圏アイヌの活動の歴史、それはアイヌ伝統社会から離れた都市生活の中で、一人ひとりのアイヌが民族の記憶を受け継ぎながら、新しいアイデンティティを模索した歴史でもあります。映画は、アイヌであり続けようとしてきた一人ひとりの心にしまい込まれていた物語によって編み込まれる一枚のタペストリーとして完成されました。

その織物に向き合い、目と耳を澄ます。

 

そのことは、私たち日本人が多文化社会を、これからどう生きるかを模索する大切な契機となるはずです。

 

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◇百年の回廊を吹く、追い風の中で

 

アイヌ民族は縄文文化を受け継ぐ人々ですが、日本の書物に登場するのは、7~8世紀頃からです。朝廷から武家の頭領に与えられる征夷大将軍という呼称の“夷”とは、時の権力にまつろわぬ北方の人々、主にアイヌを指すことばなのです。北前船でにぎわう江戸時代には、アイヌの男は労働力として酷使され女たちはさらわれて、崩壊していった家族やコミュニティーの例もたくさん記録されています。

 

蝦夷というこれまでの呼称を改め、北海道と命名されたのは明治2年。政府直轄の開拓使が置かれた年のことです。この広大な北の大地は、新生明治政府の財政基盤を賄うフロンティア=内国植民地とされ、殖産興業で西欧列強と肩を並べるため、森林、農水産、鉱物などの資源供給地として開発が求められたのです。

 

そのため明治政府は、アイヌたちが暮す大地を「無主地」と勝手に断定し一方的にとりあげました。それを和人たちに払い下げ、残った広大な国有地の中からわずかな土地を「旧土人給与地」という名前で「温情的に」アイヌたちに分け与えるという施策をとったのです。

 

それまで、狩猟採集で暮らしていたアイヌたちは狩猟地を奪われ、コタン(集落)から追いやられました。主食だったサケやシカを捕ることも禁止され、祭祀風俗も禁じられました。しかし、同化への嵐が吹き荒れるなかで、翻弄され疲弊を余儀なくされる時間に耐えながら、アイヌ民族は民族としての歴史を持ち続けてきました。

明治政府の苛酷なアイヌ同化政策は私たちの想像に余りますが、維新政府が米は野蛮だからパンにしようと稲作禁止令を出したと仮定してみてはどうでしょう?

そうであったとしたら、日本文化はいま頃どうなっていたでしょう?

 

明治32(1899年)年公布の「北海道旧土人保護法」がやっと廃止されたのが1997年。替わりの「アイヌ文化振興法」は文化振興のみを目的とし、困窮の淵に追いやられてきたアイヌの生活権の復権にはほど遠いものでした。また1970年代からの道内アイヌの生活格差是正のため施行されたウタリ福祉対策も、首都圏のアイヌはずっと対象外という状況だったのです。

 

しかし、ここにきて、社会の流れが大きく変化してきました。

2007年9月、国連で「先住民族の権利宣言」が採択。

これを受けて2008年6月「アイヌ民族を先住民族として認め、関連する政策を推進するよう政府に求める決議」が国会で採決されました。他の先進国に大きく遅れながらも、わが国でも先住民族施策への準備が始まっています。こうした国内外の歴史的な動きに呼応しながら、首都圏アイヌは活発な活動を続け、街頭署名活動や首都圏4団体合同で開催された「アイヌ文化祭」など、カメラはその動きを追い続け、2010年8月、3年半の月日をかけて、ようやく完成いたしました。

 

 

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